タータンの歴史 – 誕生の真実~波乱万丈な軌跡

ハイファッション、ロック・スタイル、ウェディング、カジュアル、制服、スポーツウェア、インテリア‥世界中の子供から大人まで年齢、性別、スタイルに関わらず幅広い人々から愛されているタータンの誕生は未だ謎に包まれ、その発展の軌跡は決して順調なものではなかった。ストーリーまでもが、ワクワクさせてくれるタータンの歩みを辿ってみよう。

3000年前、ケルト人は既にタータンを纏っていた!?

20世紀に中央アジアで発見された紀元前2000年頃のミイラは、驚くことに、高く鼻筋の通った鼻と深くて丸い眼窩に金髪で、男性は濃いひげをたくわえた、コーカソイド(白色人種系)のものでした。共に発見された布は、タータンによく似た格子縞で、重量、感触、厚さは初期のキルトに使われていた布と同じものだったのです。また、アジアの内陸地域の伝統的な織物の中にも、青銅器時代のオーストリアでケルト人の先祖が織っていた格子縞のツイルにそっくりなものがあります。さらには、ゲール語を話すスコットランド人は、インド・ヨーロッパ人のケルト族に属し、方言の類似性をもとに整理されたインド・ヨーロッパ人の家系図では、ケルト語の隣に中央アジアのトカラ語があります。結論として、考古学では「格子縞(タータン)はケルト人により、少なくとも三千年以上つくり続けられている。」と考えられるようになりました。

スコットランドのタータンの足跡

スコットランド内で発見されたタータンとしては、1933年にスコットランドのセントラル・ローランドのファルカークで見つかったツー・トーンのウールの端切れが最古の物とされています。この端切れは紀元前83年~西暦230年のローマのコインと一緒に食器の中から見つかったことから、ファルカークがローマの占領下にあった3世紀のものと考えられています。しかし、タータンのデザインがローマ人によってスコットランドに持ち込まれたものなのか、既にそれ以前からスコットランドにあったのかはわかっていません。

1538年の会計記録に、スコットランド王ジェームス5世が〝ハイランド・タータン“を購入した記載が残っており、文字で確認できる「スコットランドの柄物の洋服の存在」としては最古とされています。

そして、その10年後には、フランスの歴史家ジャン・ド・ボーグは、ハディントンの包囲戦に参加したハイランダーの兵士が「薄手で多色のウールを纏っていた」と述べています。

1703年に、2つの主要ルーツを持つマクラウド氏族の一派、スカイ島に起因するマクラウド・オブ・マクラウドのマーティン・マーティン氏によって、ゲールの衣装がどのうに作成されていたのかを残しています。スコットランド西部諸島の説明の中で、彼は「男性のみが着用するチェックは、選別された多色で巧妙に構成され、限りなく細い糸で織られた最高に素晴らしい上質なウールだ。それを細かい手作業で作っていた女性たちの苦労は計り知れない。」と述べています。

ハイランダーの誇り 繁栄と衰退
タータン暗黒時代

ハイランドの生活様式は、1745年のジャコバイト蜂起で頂点に達し、翌年のカロデンの戦いで英国政府がチャールズ・エドワード・スチュアート王子の軍隊を破壊したことで最高潮に達しましたが、その後、反乱を恐れた議会は、バグパイプ、ハイソックス、剣、銃といった装飾品一式と共に、タータンの着用を全面的に禁止することを決めました。1746年に発令された禁止法では、「英国のスコットランド地域内での、英国軍の将校と兵士として雇われるもの以外は、タータンをはじめバグパイプを含む、ハイランド・ウェアで用いられる一切の装飾品の着用」が禁止され、タータンや格子柄が部分的にでも施されたものを着た者は逮捕され、国王が所有する海の彼方の農園に7年間囚われの身とされました。ハイランダー達は無地のズボンを着ることを強要されたのです。

スコティッシュ・レコード・オフィスに保管されているゴードン城の遺跡などの地所文書には「このことにより、士気が低下し、貧困状態に陥ったハイランダーの多くは黙認することしかできず、財産の全てを手渡した」と記されています。残されたのは、いくつかの教区のテナントにより差し出されたチェックと格子縞が記載されたリストと、全盛期に両軍で戦ったゴードン氏族を痛烈な降伏に追い込んだハントリーの傷跡だけでした。

この禁止令に違反する者はほとんどいませんでした。ハイランダーたちはすっかり勢いを失い、疲れ果てており、氏族長たちは、禁止令が発令される直前の1745年のうちに亡命し、残された住民が心から望んでいたのは、たとえ彼らの文化的アイデンティティが否定されることでも、平和な日常生活を取り戻すことだけでした。

復活の時 タータンがスコットランドを統一!?

1782年までに、禁止法は不条理で執行不可能であるという見解が広がり、その同じ年、グラハム侯爵(1790年にモントローズ公爵3世になった)は、ロンドンのハイランド協会のメンバーの後援をうけ、法律の廃止を申請することに成功したのです。

1822年の英国王ジョージ4世による北の首都エジンバラへの公式訪問は、スコットランドにとって170年ぶりの在位英国君主の訪問という歴史的な行事でした。その企画にあたり、ハイランドのロマンチックなイメージを描き人気を博していた小説「ウェイブリー」の著者であり、ハイランドとローランド双方の氏族にも精通したウォルター・スコット卿が助言を求められました。彼の粋な演出により、王をもてなすグランド・ボールのイベントは「ハイランド・ボール」と称され、「昔ながらのハイランド衣装を着用」というドレスコードが設けられました。これによって、それまで氏族のタータンを持っていなかったスコットランド南部ローランダーの紳士たちは、ハイランドやエジンバラのテーラーに駆け込み、自らの氏族タータンの衣装の調達に躍起になりました。それまで、山賊の原始的な衣装というイメージだったハイランド・ドレスがスコットランドの国民的衣装になった重要な瞬間でした。

結果として、ハイランド・ウェアーが親しまれただけでなく、キルトとタータンという、新しいスコットランドの国民的シンボルを共有することで、ハイランダーとローランダーを結びつけることにもなりました。また、それはかつての氏族長の誇りの復活の瞬間でもありました。

チャールズ・エドワード・スチュアート、キングジョージIV、サーウォルタースコット、ソビエスキー、スミスブラザーズ、ウィリアムウィルソン、ビクトリア女王などは、スコットランドの代表的なアイコンとしてのタータンの確立において、重要な役割を果たした中心人物たちです。 またその背景には、移民の明るい希望によって花開いた精神性とロマン主義が宿るケルト人の遺伝子プールが大きく貢献したと言えるでしょう。

海を渡り広まり続けるタータンの魅力

スー・グリアソン氏は彼女の著書「Colour Cauldron」の中で「タータンが19世紀半ばに初めてハイファッションとなる頃には、染色技術、また洗練された視覚的悦楽を創り出す技術は共に最高のレベルに達していた。」と述べています。

世界中で標準化が進む中、大小にかかわらず個人、家族、協会、企業が、オリジナル・タータンを持つことの利点に気づくのに時間はかかりませんでした。個人や家族には、自らの祖国につながるユニークで刺激的なアイデンティティを与えてくれ、団体にとっては、歴史的な「ロゴ」と彼らの「活動」の声明であり、企業には、「信頼できる」スコットランドのルーツを反映した品格をもたらしてくれるからです。

一枚の端切れが、視覚の魅力だけでなく、郷愁、家族の絆、所属、誇りといった精神的な刺激を与えてくれるタータンは、スコットランド内外で今も増え続け、その可能性は測りしれません。