日本にほん灯台とうだいちち」は「横浜よこはままちづくりの父」?!

横浜のまちづくり
開国後かいこくごまもない明治めいじ元年がんねん(1868年)に、スコットランドじんのリチャード・ヘンリー・ブラントンは、日本の灯台建設けんせつのための技師ぎしとして、日本政府せいふしょうへいされ来日らいにちしました。日本にいた7年間ねんかんに、日本じゅうに26の灯台を建設けんせつしただけでなく、横浜のまちづくりにおおきくかかわることになったのです。「日本の灯台の父」とばれるブラントンは、「横浜まちづくりの父」とも呼ばれるようになり、横浜公園こうえんにはブラントン氏のぞうがあります。

 

横浜公園内に設置されたチャールズ・ブラントン像

横浜でのおも活躍かつやく

横浜留置りゅうち測量そくりょう

日本はつ公共こうきょう電信でんしん建設けんせつ

新橋しんばし・横浜かん鉄道てつどう意見書いけんしょ

吉田よしだばしてつはし)建設

居留置 下水道げすいどう整備せいび西洋式せいようしき道路どうろ舗装ほそう街路がいろ照明しょうめい計画けいかく

水道すいどう計画

関内駅近くの吉田橋(鉄の橋)1868年にブラントンによって架け替えられた鉄の橋

みなとの建設計画

中村川なかむらがわ改修かいしゅう設計・工事こうじ

日本大通にっぽんおおどおり設計・工事

技術ぎじゅつおしえる学校がっこう開校かいこう

横浜公園設計・工事

 

日本初の外国がいこく企業きぎょうが横浜に誕生たんじょう

香港ほんこん貿易ぼうえき会社がいしゃ「ジャーディン・マセソン商会しょうかい」の創業者そうぎょうしゃ一人ひとり、ウィリアム・ジャーディン氏のおい、ウィリアム・ケズィック氏は、日本製にほんせいきぬ品質ひんしつたかさに将来性しょうらいせいをいだき、1860年初頭しょとう旧英国きゅうえいこく一番館いちばんかんげんシルクセンター)に日本で初の外国資本しほん会社かいしゃ「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店してん設立せつりつしました。

横浜から西洋せいようスポーツが日本中に!

西洋のスポーツのおおくが、横浜開港かいこう以後いご、横浜に外国人がいこくじんによって日本に紹介しょうかいされました。そのころのYC&AC(ヨコハマ・カントリー・アンド・アスレチック・クラブ)と、のちにYC&ACに統合とうごうされるいくつかのスポーツクラブが、横浜開港以後の日本のスポーツの普及ふきゅう原動力げんどうりょくになっていました。YC&ACのはじまりは、横浜にんでいたスコットランドのグラスゴー出身しゅっしんの23さい、ジェイムズ・モリソンのいえ食堂しょくどうでした。クリケットが大好だいすきだったモリソンは、クリケット仲間なかまのアーネスト・プライスをはじめとする何人なんにんかの仲間をあつめて、横浜クリケット・クラブ(YCC)をげたのが、YC&ACのはじまりでした。

震災のつめあとが人気にんきスポットに変身へんしん

1923年の関東かんとう大震災だいしんさい壊滅かいめつした横浜市の復興ふっこう尽力じんりょくしたスコットランド人の貿易商マーシャル・マーティン氏は、震災の瓦礫がれき処分地しょぶんちを公園にする計画を提案し、そこはのち山下やました公園になりました。

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